![]() ドラえもんは「どこでもドア」で自由に飛び回る。こちらはそうもいかないが、長い旅の繰り返しで、それはそれは、使ってない写真やデータが、パソコンや保存ディスクに”ゴマン”とある。これをいくらかでも拾い出そうと、このサイトを立ち上げたというわけだ。地域や話題を限定せず「出たとこドア」を開いて掲載します。 題してNo Bocco。面白くないからといって“ボコン”と食らわすなな、という意味じゃ! 【リンク集】 ①巨大洞窟を歩く ②プレットヤマ城 |
①![]() スロベニアは日本人にとって、ちょっと”遠い”国のように思う。西にイタリア、北にオーストリア、南はクロアチアだがちょっとだけアドリア海に面していて、ベネチアからも近い。観光客から見て、地理的には決して遠くはないのだが、目立たない。我らジジ・ババも敢えてこの国へ行こうと思って日本を発ったわけではないが、どこかの国でレンタカーを借り、鼻の向くほうに走っていたら、スロベニアの名所近くだったということだ。 左はシュコツイアン洞窟の一部、右は首都リュブリヤナが赤丸で記されたスロベニア。 チケットを買って入り口は?と聞いたら民家の裏口みたい。谷まで下ると岩壁に遊歩道が刻まれていた。 左は深い水。遊歩道のライトが頼り。人影もなくいささか不気味。 照明の明るい遊歩道だが、すぐ下は地底湖。右は対岸の通路。薄暗い照明しかない ![]() 橋があり、外へ出るには薄暗い照明の対岸の遊歩道を通る 右下は地中の川 洞窟から流れ出る瀧 【御託】 スロベニアには約1万ほどの小にゅどうがあるそうです。ここに掲載したシュコッツイアン洞窟群は、世界でも有数の鍾乳洞で、地上を流れる川が陥没校孔に流れ込み実に34㌔も地価を流れて地上に出てアドリア海に注ぐ川のl源流となっているそうです。ここに掲載したのは洞窟群の中でも長さ2.5㌔、天上の高さが90㍍の地下峡谷です。 訪れたときは観光客も少なく、監視する人も見えない洞窟でしたが、最近は観光客も増え、マナーの問題もあって、洞窟内の写真撮影が禁止されています。良い時に行ったもので、写真は撮り放題でした。 |
② ![]() ![]() 深い谷底に、点となって瀧が見える。遥か上に教会の台地。 牧歌的と言うような農家と畑が続く斜面を、山の方へと上っていくと、岩壁の中に,半ば埋もれたように見える白壁の建物が見えた。上り坂は突き当りになり、左に曲がると”城”へ続く、ちょっと広い道がある。地元では「洞窟に建つ」十いう意味でブレッドヤマと呼ぶ。 一般に言う西洋の城というより、4,5階建ての古い総合住宅みたいな外観で、格別の特徴は見当たらない。敢えて言うと正面が狭く、アーチ型の入り口があるだけで、後は塗りこめられた外壁に窓lが作られているだけ。向かって左は深い崖になっていて、背後は洞窟が見える。何だか拍子抜けするおうな”城”だ。 ![]() 城の中へ入った。2階、3階と上ると、窓から村が見える。きれいに整備されえた居間は、かなりの広さでちょっとおしゃれな住居を思わせる。しかし、こういう平和な?造りではあるが、村を見渡せる部屋を除くと、堅い防御を固めた建物跡分かる。 ![]() ひさしに隠れるように狭い空間からは大砲が狙う。 ![]() 居住スペースを一歩出ると、荒々しい洞窟が現れる。表からは見えない大きな洞窟が上へと延びている。岩を刻んで階段が作られ、どこまで続くのか不思議な雰囲気。上の写真でお分かりだろう。途中には横穴の様な部屋があった。覗き込んだら、「拷問部屋」とでもなっていたのだろう、両手を縛られた裸の人形が、滑車でぶら下げられている(写真・下)。なんとも残酷な展示物。その部屋と表のl建物lを結ぶ”橋”は深い谷間の湯に思えた。観光客がおっかなびっくり下をのぞき込む。 ![]() 先の上に延びる階段を上っていくと、次第に狭くなり、手すりもなくなる。それでも階段は、上へ、上へと続く。 外からでは分からない防御。ちょっとした広場?には石、鉄球の砲弾 この城には十五世紀、この地方で言い伝えられている有名な城主がいた。 その名はエラゼム。実在した騎士で裕福な貴族から略奪したものを、貧しい農民に分け与えた”義賊”として一面も持っていたといわれ、それがこのl地方で長く言い伝えられる人気の秘密なのだろう。 この一帯はオーストリア帝国の支配下にあったが、エラゼムの親友の名誉を汚のした軍のl司令官を殺害したため、軍に追われこの城に逃げ込んだ。数々の大きな鍾乳洞があるこの地方独特条件を生かして作られたプレットヤマ城は抜け穴があり、階段の先は自然の洞窟のままにされていて、外部からはわからない。オーストリア軍は、水、し、食料などの搬入を阻止。兵糧攻めを試みたが一年ほど攻めあぐんだという。 抜け穴を通って食料などを搬入していたのだ。また、鍾乳洞なので部分的には水脈もあり、内部に井戸もあった。しかし、軍に買収された部下の裏切りで、比較的無防備のトイレに入ったところを密告され、大砲を撃ち込まれて絶命したという。1484年のlことだという。 この城はヨーロッパに唯一、現存する洞窟城としてギネスに「世界で最も大きい洞窟城」として登録されている。もっとも16世紀初頭の大地震でダメージを受け、今のl城は1570年に再建されたが、イメージは伝わっているという。 |