欧州最北の岬とオーロラの旅 フィンランド、ノルウェーを巡る 2015-09、10月 ①オーロラ ②nordkapp 番外・回想・1972年のノルドカップ ③ロヴァニエミとサンタクロース ④北へ発進 ⑤ノルドカップ周辺 ⑥再びフィンランドへ ⑦オーロラの出始めから終わりまで |
①北岬に立ち、北緯70度の宿で天空に舞うオーロラを見ました 感動の30分超でした。 ![]() 今回の旅の相棒は例によってババです。ジジは77、ババは76歳なので、空港でレンタカーを借り、鼻の向いた方へと走る気ままな旅が、いつまで出来るかも考えるようになりました。しかし、長年の経験でしょうか、左ハンドル、マニュアルシフト、右側通行も苦にならず、すんなりと町中を走れるので、まだしばらくは海外のドライブも問題ないようです。 今回はフィンランドからノルウェーに入り、ノルドカップまで行くのも、オーロラ見物とともに、大きな目的でした。北欧の秋は当然、観光シーズンから外れているので、人は少ないし、観光施設や宿なども、閉鎖されているところが多かったのです。 ![]() オーロラを見たのは93号線と956号線の出会う、エンテキエという小さな町です。ここではOunaloma Laxury Cottageに泊まりました。針葉樹の林の中に、サウナ付のコテージが散在し、なかなか快適です。車で2分の町にはスーパーマーケットもあるので、自炊にはうってつけですが、車がないとこのコテージへの宿泊はお勧め出来ません。 「お化けとオーロラは滅多に出ない」と冗談を言いながら、暗くなり始めた午後の9時過ぎにコテージの前、に出て三脚を立てました。こぼれ話は後に譲るとして、隣のロッジへ客を案内してきたオッサンが「今夜は出るぞ。向こうからこっちへ」と天空を指さします。木々はあるけれど、かなりのスペースは空が占めているので「ここで良いか」と待っていること数分。ババが声を挙げました。 ![]() 「そうかなー」とフィンランド、ノルウェーとオーロラを見るチャンスがないのでほぼ諦めているジジは気のない返事です。 ところが、もやもやした霧のような淡い光りは、急に黄緑色に変わり、木々をシルエットとして浮かび上がらせました。 「オーロラだぜ」 光りは帯となり、帯は数本の太いベルトとなって天空に伸びてきました。満天を覆うと言うのではなく、空を見える限り横切るのです。光りはあちこちで破裂し、幅広い帯となり、天空をくねって移動するものもあります。その壮大さ、素晴らしさに声もなく観ているばかりなのです。 そのうちロッジの後ろにも出現です。泊まっている小屋の後ろから、サーチライトのように天空に向かって真っ直ぐに伸びるかと思うと、それは次第に傾いて行くのです。光りの饗宴と言えそうな華やかさです。空一面に光りのごちそうが、次々と繰り出されます。 正確に時計は見ていませんでしたが、30分は超えたでしょう。途中で一度弱まり「もうお仕舞いかな」と話していたら、再び天空に賑わいが戻って来たのです。北斗七星、シリウス、北極星などが、オーロラをすかして見えたり、帯の横に並んでいたり、それは見事なものでした。 後で調べてみたら、フィンランドでこの時期に(9月末)オーロラが見られるのは、どうやら希有のようです。もやもや、程度は見えても、天空を走る黄緑の帯、吹き上がるような鮮やかな垂直の帯などは、本当に幸運に恵まれないとみるのは難しいようでした。 オーロラに巡り会うのは難しいようです 北極圏、ことにオーロラ・オーバルと呼ばれる北緯65度から70度は、オーロラが良く見られる地域です。もっと極点に近くへ行けば、さらに頻繁に見ることが出来るかと思っていたのですが、そうではないようです。オーロラ・オー ![]() ![]() オーロラが現れるのは太陽との関係や磁力線などさまざまな要素が重なって、鮮やかな光りを発するようですが、毎年同じように出るとは限りません。16、17世紀には年間数日から10日ほど。1810年にはたったの1日しか観測されていないそうです。その後、増えたり減ったりしながら、20世紀前半は40~80日。フィンランド気象庁が発表した2005年から2010年間のオーロラ出現数は、ここ100年間では最少だったとしているのです。今年のオーロラはどうか、ネットで探してみたのですが、今のところ見つかっていません。 ジジ・ババの見たオーロラが、今シーズン北欧最大のものだと思い込んで、脳天気にも喜んでいるのです。 |
②ノルドカップ ![]() 魂消たのはノルドカップ博物館です。岬の先端へとたどっていくと、ゲートがあります。単に岬では金は取れないでしょうから、駐車料と博物館の入場料となっているのです。なに、それほどのものがあるわけもないのです。北の果て、というだけですから本来は大騒ぎするような所でもないのです。昔来たときには、今は駐車場になっている広場が、トナカイを集める場所でした。子供が血の吹き出る頸動脈へかぶりつき、血をすすっていたのが、今でも脳裏に浮かびます。こうして栄養を蓄え、厳しい冬を越すんだ―、と思ったものでした。 ![]() 北の果ては曇り空で、寒々としていました。気温は10度ほどなので、東京の冬とあまり変わりません。次の日から、宿の前に駐車しておく車のフロントガラスは、氷がへばりつき、掻き落とさないと視界ゼロです。「北へ来たんだなー」とつくづく思ったものです。ノルドカップから25㌔ほどの所に、最北の漁村があり、今は宿舎もあります。しかし、シーズンオフだったために、宿は閉鎖状態で、泊めてやる、の態度が気に入りませんでした。 夕食も作るわけにはいかないので注文したら、二人だけの客に宿の女将さんは、仏頂面で鮭の煮たのを出しました。良い鮭ですが、煮てしまってはどうにもいけません。食事にありつけただけで、良しとしないといけません。漁港へも行ってみましたが、ことさら記録するようなものはありませんでした。 ![]() 断崖は北の海に落ち込み、荒々しい様相です。礼文島の北は、なんとなく穏やかだし、佐渡の北もとげとげしくはありません。しかし、ノルドカップは100㍍は十分にあるだろうと思える崖が、落ち込んでいるのです。このあたりでオーロラを見ることが出来たら素晴らしいのですが、北緯71度10分21秒ともなると、確率は低くなるようです。2時間ほどうろついて、宿へと戻ったのです。 ![]() そういえばラップ人があちこちの道ばたに店を広げ、観光客にものを売っていたのですが、今はほとんどそういう人たちはいませんでした。別の職業に就いたのか、観光地にありがちな、行政の禁止措置でなければ良いのですが…。 このお婆さんは土産物屋の客引、言い方を変えればマスコット婆さんで、民族衣装を着て、トナカイを連れていました。もう民族衣装を着ている人は、年寄りしかいません。すぐ側には綺麗なプレハブの家があり、そこの住人でした。立派な角を持ったトナカイは家の横にある囲いで飼っていて、客の行き来する時間帯に、土産物屋の横に張ったテントとともに、客を呼び込んでいるのです。 ![]() 今のノルドカップに昔の姿を求めるとしたら、この記念碑と断崖でしょう。大きな博物館という名の「土産物センター」が出来てしまって、ちょっとがっかりです。そこで昔の様子を懐かしみ、1972年のノルドカップを追加しました。 |
番外 回想・1972年のノルドカップ ![]() 夢の多い時代でした。1964年に東京オリンピックが開催され、それに向かって60年台初頭から東京は大改造が進み、今の青山通りや駒沢、国道246号などは、すっかり様相が変わりました。 若者は元気がよく、パソコンもスマホもなかったので、よくしゃべり、論議し、外国への旅を大きな夢として持った人々が沢山居ました。著名なデザイナーやアーチストとなった人も、シベリア鉄道で北欧、そして皿洗いなどのアルバイトをして、パリなどへ向かったのです。 自動車に関する興味も急激に膨らみ、マイカーを持つことが大きな夢となっていました。そんな時代なので、海外のドライブは夢のまた夢のようなところがあり、国境を越えて移動する車の旅は、若者の憧れでもあったのです。 ![]() 1972年に喜望峰=写真・左=よりさらに南のケープアグラスからノルドカップ=写真・右=まで、コロナ・マークⅡで走り抜けました。アフリカ大陸はまだ“暗黒大陸”の呼び名も残っている時代で、車で縦断すること自体が、冒険でした。しかし、現在のようにテロリストがいたり、各国の治安が悪くはなかったので、車を走らせることや、アフリカの状況を見たり、聞いたりすることに集中できました。 市販車の無改造。改造したところと言えば、スペアタイヤのスペースに予備タンクを付けたことだけでした。よくも走れたと、今更ながら思います。 ![]() その前年にはオーストラリアを一周したし、さらにその前には、リスボンからコルカタ(当時はカルカッタ)まで車の旅をしているので、結構な実績はあったのですが、ちょうど日本車が成長期で、自動車を持つことは、若者の夢だった時代でもあり、海外の“アドベンチャードライブ”(当時はこう呼ばれていた)などは、若者の心を躍らせるものでもあったのです。 ![]() ノルドカップは途中から、スペインの病院に勤務する女医さんをリーダーに事務のオッサン、看護婦3人の5人組=写真・上=とノルウェーで出会い、フラメンコを教わりながら、楽しく北へ向かったのを思い出します。相棒は当時の会社の写真部員だった中山広亮君でした。ここに掲載する写真も、中山君が撮影したものです。機会があれば「世界の旅」のコーナーで、南アからノルウェーまでの写真とメモを掲載しようかと思っています。 |
③ロヴァニエミとサンタクロース ![]() ![]() 「晴れて湿気が少ない夜だと2日に一度は見られる」というのもありましたが、晴れて湿気の少ない夜が、どのくらいの確率なのか、これもまたわかりにくいのです。嘘ではないでしょうが、良く考えると沢山の条件が重なり合っているように思います。 ヘルシンキで乗り換え、1000㌔ほど北のロヴァニエミまでローカル線で飛んだのですが、ヘル ![]() ![]() ![]() ロヴァニエミの空港では、荷物受け取りのすぐ横に、Hertzのブースがあり日本から予約しておいたジジ・ババのために、一人来ていて車を引き渡すと、そのまま帰って行きました。旅先のローカル空港では、こういうことが多いのです。ロヴァニエミと言えば、日本ではサンタクロースがお馴染みです。空港の南側は丘になっていますが、そこではガラスのトナカイが跳ねていて、夜はイルミネーションに変わるようです。 ![]() 様子が分からないのでとりあえず、町中のホテルを予約しておき、そこに泊まったのですが、ホテルへはなんと翌日行く予定のサンタクロースの施設を通り越して行くのです。施設はなかなか綺麗なコテージがあり、サウナもついているのが分かったので、ロヴァニエミからさっさとコテージへ移りました。 コテージの事務所や土産物売り場、食堂などのある建物には、時間決めでサンタクロースが控えています。午前10事故路から昼。2時頃から4時頃までがサンタさん、面会の時間というわけです。日本人は上得意のようでした。あれこれ話しかけてきて、一緒に写真を撮ろう、と持ちかけます。入場は無料ですが、記念写真は20ユーロと、こりゃ高い!ま、つきあいで入場料代わりと思って、買うことにしました。別に買わなくても良いのです。 ![]() (写真=上・空港前のイルミネーション。上右・公式サンタクロース空港の絵。サンタクロース施設のオフィス兼売店。このポストに投函するとクリスマスにサンタクロースの判が捺されて届く。サンタの家の森の精たち。) |
④車の鼻を北へ向けて発進です ![]() サンタクロースのいる所、で人気はさらに高まり、サンタ村には郵便局が出来て、ここからサンタクロース宛の手紙に返事が出されるようになりました。子供達は喜びます。ババも小学生だった子供を連れて、ここを訪れ学校のクラス宛てに、サンタに手紙を出して貰ったら、先生がとても喜び、子供達も大喜びしたそうです。今ではこうした大らかさが、小学校にあるのかどうか、ちょっと疑問です。モンスター・ペアレンツが「うちの子は…」と、騒ぐかも知れませんね。 ![]() 「もっと北へ行けば出るかも知れないな」 「イバロ、イナリ辺りへ行けば、オーロラを見るのを売りにしている宿もあるので、可能性はあるね」 ![]() ![]() 売り物の一つ、湖はヘルシンキとロヴァニエミの中間、WRCのフィンランド・ラリーが開催されるユバスキラと ![]() 福祉国家を維持するのは大変で、Nokiaがマイクロソフトに買収されて、不振から立ち直れるかと思ったようですが、アメリカ企業はいいとこ取りで、本社こそフィンランドに置いていても、生産現場はよその低賃金の国に移ってしまい、国庫の25%ほどを支えていたNokiaは、ヘロヘロで名前だけになってしまいました。子ども手当、休業手当、その他、景気の良いときにやってしまった“ばらまき”のツケは膨大で、国家が破綻しないかと心配になるほどです。 ![]() 「福祉は北欧に学べ」などとほざく左巻は、実情を、よーく、研究して欲しいですよ。貰う人ばかり増えて、税金を払う人が払底です。あるネットを見ていたら「北欧の人は、喜んで税金を払う」などと、馬鹿なことを書いていました。誰が給料の半分近くを税金に取られて喜びますか!高い税金を払うのを喜ぶとしたら希有の奇人変人でしょう。 ![]() 「北欧では、北欧では」とお経のように唱える日本の“有識者”の無知ぶりに、旅をしていると呆れるばかりなのです。 |
⑤ノルドカップとその周辺 ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() 日本の旅に慣れている人にとって、北欧に限らず世界のどこの国でも、トイレの少なさには辟易とします。日本では20年ほど前から整備が進み、観光地や高速道路、主要道などでといれ探しで困るようなことはまれですが、よその国ではとてもとても、日本と比べようもありません。このあたりも、「北欧では…」という北欧信者、盲者は良く見て欲しいところです。日本のトイレは無料がほとんどで、綺麗に掃除が行き届いていることでも、間違いなく世界一です。大いに自負心を持つべきです。 ![]() ![]() カリガスニミエという村がフィンランド・ノルウェーの国境でした。道を間違えてロシア国境方面へ100㌔も走り、いかにも変だと思って遠くから走ってくる車を見つけ、停まって貰って尋ねたら、案の定、ちょうど100㌔、間違って走っていました。往復200㌔のミスコースです。約束の時間などはないし、宿へ着けば良いので問題なしで戻りました。その分だけ、北の風景を楽しめたことにもなるのです。 ![]() 既に特集したノルドカップまで行き、最果ての漁村、スカラスヴィグに泊まりました。北緯71度10分21秒はヨーロッパ大陸、最北の地でもあります。(写真=トンネルは本土とマーゲル島を結ぶ7キロに迫る海底トンネル、トンネル内。左の犬のいる建物はホニングスクスポークの港にある博物館と土産物店。右は町。下は最北の漁港、スカラヴィグ。) |
⑥ ノルウェーから再びフィンランドです ![]() しかし、観光客のやってくるフェリーの港は、ほとんど船が着かず、我々も6870㍍の海底トンネルを通ったのだった。ホニングスボーグはトンネルをぬけてしばら ![]() ジジ、ババは好奇心旺盛なので、行ってみたけれど、観光シーズンが終わったからかどうか、港の前の大きなビルにある博物館は、午前11時会館、土産物屋もそれに習っているので、町を車で流してみるほかはなかった。ノルドカップへ行く観光客はフェリーで、この町の港に着くほかはなかったが、そのルートはほぼ消えて、車は海底トンネル(無料)を抜けて町から離れたところを北へと向かう。 ![]() ルッセンスの町まで戻り、北上してきた道を分岐で右に取り、アルタ経向かった。このあたり、カラショクから北上して来たE6号線はE6国道として西に向かい、アルタへ行く。ノルドカップへはE69号線となる。片側一車線、往復2車線の道路は、制限速度90㌔なので、ガードレールもない道をかなりの速度で走って良いことになっている。交通量が少ないからこその制限速度と言えそうだ。 ![]() ![]() ![]() ![]() 森の中には綺麗な苔が何種類も生えていて、ぶらぶらと歩いていると、目を楽しませてくれた。オーロラが出たのは、2泊目だった。 |
⑦ オーロラの出始めから終わりまで。 ![]() ![]() そうしたら出たのです。「お化けとオーロラは出ない方が普通なんだ」などと言っていたのに、すっかり喜び、良い気持ちになってしまいました。その余韻はまだ続いています。そこで無精してロッジの前で撮った写真を掲載します。喜びすぎにはご容赦を。 空全体がなんとなくモヤモヤして来た後に薄い雲のようなものが広がってきました。 「オーロラかな」 「ちょっと寂しい光り方だな」 などと言って空を見上げていたのです=写真・左=。 そのうち幾分光りが増してきて、薄い黄色の帯ができはじめ、周囲はごく薄い紫がかって来たように見えました。期待が膨らみますが、それは長続きしませんでした。=写真・右= ![]() 「オーロラを撮ると言って買ったカメラを撮らないうちに壊したんじゃしょうがないねー」 最近のカメラは丈夫に出来ているのでしょう。かなりの音がしたのに、壊れてはいないようでした。 こんなことをして、ロッジに入るのに手間取っている時に、別の建物に客を案内してきたオッサンが「今夜は出るよ。ずーっと広がるぞ」と北から南の空を指さしました。なんとなく空を見ていたときです。今度はモヤモヤではなく、急に空が騒がしくなり、樹林の間、その上へ黄緑の光りが飛び出しました。上空へも光りはぐんぐんと広がり、慌ててカメラを向けたのですが、三脚に取り付け、マニュアルでシャッター速度を8秒、ISO感度は800、タイマーを2秒にセットするなど慣れない操作をやっていたら、オーロラはかなり広がっていました=写真・左上=。 ![]() ![]() 左右の写真はその様子の一部です。空を見上げるだけのババは「空全体に広がってる。魚眼レンズででもないと、とても撮りきれないね。写真撮ってるより見た方が綺麗だよ」などと言います。 ![]() ![]() こんなことをやっていられたのも、見事なオーロラが30分以上は出ていたからです。ほんの2~3分のこともあるようです。オーロラ見物のツアーに出かけた人の多くは、見ることの出来ないケースが多いようです。 「晴れて、空気の澄んだ夜は、2日に一度は見える」 「年間200日は出ている」 こういう話は、決して嘘ではないのでしょうが、晴れて空気の澄んだ夜が、秋から春までの間に幾日あるのか、その条件に当てはまればの話です。 ![]() 先日テレビでやってましたが、タレントが2日続けて、豪勢なオ ![]() 右上と左の写真はそれまでとは別の北西から現れたものです。見ているところが北緯70度なので、ぐるりと地球を巡るオーロラ帯の真下です。ロッジの屋根の向こう側から、吹き上げるように延びています。周囲はいくらか紫がかっていたので、もう少し強く出ると、赤っぽくなるかな、の期待を持ちましたが、そこまでうまくはいきませんでした。 ロッジの屋根の後ろ側が明るくなり、次はどうなるのかと思っていたら、オーロラは乱舞をやめて、あっさりと消えていきました。 それこそ、南極、北極を除けば、くまなく世界を旅して来たババは、昔、北欧のガイドブックを書いて、何年も改訂のために訪れていますが、オーロラは飛行機の上からしか見たことがないそうです。 「死ぬまでにオーロラを見たいな」と、時々言ってたのですが、念願叶ったと思ったら「次はカナダでオーロラだけを見よう」などと早くも言い出しています。オーロラがなかなか見られなかったときには「オーロラが出ないと寿命が延びて良いな」などと言っていたのですが、出てもさらに別の場所で見たいと言うのでは、寿命は延びるばかりです。 と言う訳で、オーロラ自慢はお仕舞いです。 |