テネレの木
 砂漠の中の砂漠と言われるサハラ砂漠の中のテネレ砂漠に、1970年代まで、たった一本の木があった。その木は酔っ払ったトラックドライバーが激突して倒れた。テネレに生き残った木は消え去った。



テネレ砂漠を往く隊商

パリ~ダカール・ラリーの初期、1980年代にはニジェールのアガデスからテネレ砂漠を横断して、ビルマのオアシスへのルートが使われましたが、ティエリ・サビーネがマリのガオで事故死して以降は殆ど使われなくなりました。パリ~ダカール自体も、ニジェール、チャド、西サハラを始め政情不安や紛争が絶えず、ラリーそのものが襲撃される危険も出てきたため、南米での開催、ここ3年(2021~23年)はサウジアラビアで開催されている。


 
1961年に撮影されたテネレの木です(ウィキペディアから)。撮影者は不明ですが、フランス人デあろうと推測されます。


1980年代の後半に撮影したテネレの木です。パリ~ダカール・ラリーを車でフォローしているときに通った際の撮影です。上のラクダの隊商など他の写真もテネレの木と同じ時に撮影しました。


“テネレの木”の終焉

 太古から連綿とテネレ砂漠に生をつなぎ、たった一本だけの生き残った木は、無残な最後を遂げたという。
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砂の広がりの中に、木が一本、干からびたような緑の葉を付けて生き延びていた。旅人はアカシア科のこの木を”テネレの木”と愛わしそうに呼んだ。

 酔っ払ったリビア人の運転するトラックは、朦朧とした目に映った一本の木を目印に、砂の海を走り"目標”に激突した。

 数千年、もしかして万年を超すテネレの砂嵐と強烈な太陽の下で、辛うじて生を、緑を代々受け継いで、たった一本、生き残った最後の木は、酔っ払いのトラックに、無残にも止めを刺された。1973年の出来事だった。

 木の根は33㍍から35㍍も延び、地下水脈に達していて、生への執念を感じさせたと調査チームは報告した。木の残骸はニアメの国立博物館へ運ばれ、展示されている。


展示されている”失われたテネレの木”(ニアメ=博物館

 遅かった。テネレ砂漠から木が消え去ってから、その生命力を讃え、地中深
く水を求めて延びた根が、見る人に感銘を与えようと、もう還っては来ない。

木のあった場所には、金属のポールが建てられ、少し離れたところには、昔からの深い井戸がある。干からびた木と草で作られた小屋が一個(戸)。時に訪れる人を相手に、どうやってか、生活の糧を稼いでいるようだった。

子供が二人。砂まみれで遊んでいた。逞しい母親は乳飲み子をかつての日本のように“おんぶ”していた。子供の位置は低く腰の上だが…。

 “テネレの木”の話しは、年々風化し、立ち寄る人もいなくなるだろう。サハラの真ん中、砂漠の中の砂漠にあった、一本の木の物語は、間もなく忘れ去られていくのだろうか。



1988年撮影

 テネレ砂漠はトゥアレグの言葉で「何もないところ」という意味だと聞いた。アラビア語で「サハラ」は砂漠という意味だが、それと同じような意味合いだ。中国西域ではそれが“ゴビ”と呼ばれる。サハラ砂漠が「砂漠・砂漠」となって仕舞うように、テネレ砂漠も差し詰め「何もない。なーんにも無い」となるのだろうか。



まさに砂漠の中の砂漠で、アフリカ大陸の半分近くを占める乾燥地帯に、広大な地域を占めるサハラ砂漠の中の「また砂漠」となる。砂漠と呼ばれる地域でも、かなりの部分は岩山やサバンナだが、テネレに岩山は殆ど見えず、砂、砂、砂‥、の連なり。1960年代はフランス人を中心に、テネレは冒険家の世界だった。

しかし、別項にあるように、アルジェリアの南、タッシリナジールには、サハラがまだ緑に覆われていた時代に住んでいた人々が洞窟や岩壁に描いた生活の絵や線刻画が大量に残されている(サハラ砂漠に壁画を求めて=砂漠の遺跡・参照)。テネレ砂漠にもかなりが砂に埋まってしまっているが、旧石器時代の線刻画が残されているという。"テネレの木”はその時代から代を重ねて生き残った最後の緑、だった。

パリ~ダカールは遠い彼方に‥


絶望的なトラブル。落伍者を救済するカミオンバレーが来るのを期待するしかないか。

 アフリカ大陸は2000年代に入って、内戦など政情不安に見舞われている。ゲリラ、強盗団などが跋扈し、ニジェールでは女生徒が100人以上、誘拐され、売り飛ばされる悲惨な事件もあった。パリ~ダカールがアフリカを去って久しく、再び戻ってくることはないようだ。もう「砂漠にロマンを求める」ような、冒険の時代は、サハラ砂漠でも遠い昔のことになろうとしている。

 
再びテネレの木が話題になるとすれば、キナ臭さが消え、資源戦争が終わった後になるのかも知れない。その時のサハラは豪快な“パリダカ”ではなく、冷房の効いた車両と航空機による快適な観光ツアーとして蘇ってくるのかも知れない。観光客はどう感じるか‥。

「昔、ここに一本の木があった」
「木の側に一軒の草小屋が有り、一家族が住んでいた」



 冒険心に富んだ人々を引きつけたアフリカ。パリダカを始めたティエリー・サビーヌ(フランス)は、砂丘にヘリが激突して世を去ったが、ラリーはダカールの名前で南米、サウジと開催場所を変えて行われている。しかし、コマーシャリズムやコストパフォーマンスに乗り切れないスポーツは、それ自体が素晴らしいモノでも、衰退の傾向は否めない。

 崇高な神へ捧げる儀式でもあった古代オリンピックは、近代五輪として蘇ったが、年を経て今や安っぽい“商業主義の塊”へと変化し“街頭芸人”の世界へと足を突っ込んでしまった。冒険的なサハラの自動車とバイクの競技、パリダカが靜かにサハラから消えたのは、むしろ歓迎すべきことだったのかも知れない。

ここでパリダカ好きだった一人として言わなければならない。

「さよなら、パリダカ」

 
唯一の井戸。ポールで作られたテネレの木が左遠くに。



岩塩を運ぶ隊商は2020年を過ぎて存在するのだろうか

 パリダカに情熱を注いだ多くの日本人がいる。先駆者として頑張り敬意を表さなければならない人々だ。その人々にとって、パリダカは決して過去のものではないだろうが、否応なく歴史の中に組み込まれていく。

 
南米、さらにサウジのDakarまで参加している菅原義正さん、照仁さん親子、日本人として参加への道を開いた横田紀一郎さん、報道し続けている多賀まりおさん。パリダカ参加から刺激を受けたのか?日本人の主催する唯一の海外ラリーレイド“ラリー・モンゴリア”を指揮する山田徹さん、そして参加者の皆さん。ありがとう。想い出深い旅を存分に楽しみました。
(中島 祥和)
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