テッシーの リビエラ&アルプス便り  
手島正俊

アイガー北壁、グランドジョラス北壁、マッターホルン登攀・登頂者


チェルビーノ(イタリア側マッターホーン)

フランスをこの夏の熱波第2弾が襲ったという。アルプスの氷河はあちこちで大崩壊。山火事も多発しているという。過酷な夏はいつ終わるのか…。ニース近郊に住む友人の手島正俊さんからの便りは、世界規模の異常気象の片鱗を伝えている。
かつてはアイガーやグランドジョラスの登攀などに情熱を燃やしていたが、今は冬はスキー、春から秋はゴルフ三昧の余興人生。気が向いたら投稿で、さていかなる名画(写真)、迷文ー、おっと名文が届くか、お楽しみに…。

【リンク】
  0)崩壊するボゾン氷河(テスト版) ①還ってきた熱波 ②モンテカルロに遊ぶ ③リビエーラで思う

④回想・マッターホルンでの捜索  ⑤初冬のリビエラ  ➅2026年 ⑦偉大なシェフと味覚



 
偉大なシェフと    忘れがたい味
2026年1月

 

住まいの近くのゴルフ場に行くのに日課のように通過するニース郊外のちいさな街ビルヌーブ・ルーベ・ビラージュVillenouve-Loubet Villageの入り口に、フランス料理の偉大なシェフ、オーグスト・エスコフィエAuguste Escoffierの記念碑があります。彼の影響が今もなおフランス料理に強く残ることを感じます。

 この街にある彼の生まれ育った家は料理博物館に改造され、育った部屋やキッチン、料理器具、そして歴史的な晩餐会のメニューが展示されており、彼の料理の世界観を垣間見ることができます。さらに壁にかかっている経歴表に表記されている生年月日がテッシーとちょうど100年違いでビックリ。

 

 

                 

    

 

 エスコフィエは青年時代パリで色々なレストランで経験を積みながらパリのホテル・リッツ、ロンドンのホテル・サボイの料理長を務さらにモンテカルロの超高級ホテルのシェフとして世界中に名を轟かせた。世界中のトップシェフは彼の5000もあるレシピが記載されている教科書「ル・ギード・キュリネール」le Guido Culinaireをベースにしているとの事。観光客をターゲットにしたコートダジュールのレストランが多い中、特別な星付きレストランや料理作りがどれほど価値あるものかが伝わってきます。ここコートダジュールのニースにはMの星付きレストランは5店、カンヌは1店。モナコはさすがに多く7店もあります。

 モナコのオテル・ド・パリのレストラン 「ルイXVLouis XVM⭐⭐⭐でさすがに素晴らしいレストランです。30年以上前の出来事ですがこのレストランにモナコのキャロリーヌ女王の旦那さんステファーノに招待されアルベール2世大公も参加のデイナーという素晴らしい晩餐会に同席した思い出があります。

 日本の代表的な三国清三シェフが1970年代ジュネーブにいた頃フランス料理の勉強で通ったレストランにはジュネーブ郊外に住んでいた数十年前、何度も食べに行った思い出もありますが、このレストランのシェフもエスコフィエの影響で素晴らしい料理を披露していました。

 在職中は世界中を飛び回っていたテッシーは様々な食事に出会いその記憶で様々なレシピとエスコフィエのレシピを参考にしながら、自分の手で作る毎晩の夕食は、特別なひとときとなっています。各地の美食文化と個人の料理探求が交じり合う、豊かな日々を過ごし、幸せな日々と言えます。




 
新年はシャモニーで

2026年

新年おめでとうございます




  


一昨日夕方から小雪の降るシャモニに来ました。

昨日は早速スキー。

気温は山上で零下10度Cでしたが滑ってる分には寒さは感じません。

夕方はー5度Cの街を散歩。夕陽に染まったシャモニ針峰群が綺麗でした。




シャモニー。夕日を浴びる針峰。

 
モナコに遊ぶ
ナポレオン特別展

2025年8月20日掲載

 
モナコの港(左)とモナコ(モンテカルロを含む)

   

モナコのグリマルディ・フォーラムで、「モナコとナポレオン」と題した特別展が開催されている。”交差する運命”と題されたこの特別展をナポレオンの誕生日にあたる8月15日に見学に行ってきました。主要な公的機関や個人コレクションから集められた貴重な美術品、貴重な古文書、格調高い品々が展示されてました。アルベール2世公の高貴な庇護のもと、モナコ公国とナポレオンの第一次および第二次帝国との深くユニークなつながりを初めて明らかにされる展覧会とのことでした。フランス革命の英雄ナポレオンに共感を覚えていたベートーヴェンは、ナポレオンをたたえる曲として交響曲第3番 “英雄” を書きあげられ展覧会会場でBGMとしても流されてました。


 
会場正面。意外と質素だが内部は見応えあり

     
左ナポレオン。右ジョセフィン。中央は展示品

モナコはナポレオン・ボナパルトの敗北後の1815年のウィーン会議によってサルデーニア王国(現在のイタリア)の保護領となり、1861年にはフランス・モナコ条約においてモナコの主権が確認されフランスはモナコ公国の存在を認めたが、以前のモナコの国土であった近郊のマントンとロックブリュヌ カップサンマルタンが、フランスに400万フランと引き換えに譲渡併合された。この400万フランを元手に国王がモンテカルロ・カジノを運営、さらにSocieté des Bains de MerSBM)が1863年に開店し高級ホテル、レストランの経営をベースにして利益で公国を豊かにしモナコのインフラ整備にあてられた。19世紀、フランスとの鉄道が敷設されるとモナコの経済はますます発展を見せた。のちの1910年のモナコの革命で、1911年に国王が憲法発布することになった。


夜のカジノ正面

左右はカジノレストラン天井。中央は部屋全景

Societé des Bains de MerSBM)のゴルフクラブに2019年から40年来の友人で当時のクラブのプレジデントに我ら夫婦(当時唯一の日本人)がクラブ会員と認定され、以来ゴルフに励んでいる昨今です。



還ってきた熱波
2025-8-10


アイガー。(左の逆三角が北壁)

日本に負けずにフランスは第二次猛熱がきました。

各地で40℃以上を記録、夏のバカンスでどの交通機関も賑わって

いる最中で南西部では史上最大の森林帯の火事が続き高速道路が閉鎖

されたり死者も出ています。

今日8月10日は56年前にアイガー北壁を完登した記念日です。グランドジョラス

の北壁に行ったのがフランスの革命記念日(パリ祭)、アイガーへ行こうと

グリンデルワルトに行ったのがスイスの建国祭の8月1日でパリ祭の時と

同じように飲んで踊っての目的もありでしたがあいにくインターラーケンに着いた

のがグリンデルワルト行きの登山電車の最終が出た後で仕方なくタクシー

で行ったのですがお祭りは終了しており駅のベンチでビバークとなった次第です。

登攀も天気と相談だったので毎晩デイスコ通いでチャンス待ちでしたが1回の

ビバークで登頂、下りは頂上から4時間でアイガーグレッチャーの駅に到達。

最高の気分でした



崩壊するボゾン氷河
2025ー7


下部が崩壊。露出した岩肌を氷河kらの水が流れる。
 
 久しぶりにリビエーラに住んでいる友人からメールがあった。シャモニーへ先週遊びに行ったら、途中豪雨に見舞われ,シャモニだっただったが、翌朝は晴れて、アルプスはくっきり。しかし、シャモニーへと落ち込むボゾン氷河は下部が大崩壊したそうだ。上部も崩壊の危険があるようだ。ボゾン氷河は1960年代まではモンブランの一般登山者の下山ルートに使われていたが2000年に入るともう歩くのは危険。そして次第に融解して後退を続けていた。

リビエーラの新居で
2005.10、1

中央の島影がコルシカ島

ここコートダジュールはやっと秋らしい気候になり空気も澄んできました。
日の出前に起床して我がテラスから右側に見える地中海を眺めると遥か彼方にナポレオンの生まれたコルシカ島が目に入りました。この季節から12月までよく見えるので朝の楽しみみたいになってます。

テラスの正面には先日は中秋の名月がニースの丘の上にくっきり見え一杯飲みながら気分は最高。
さあらにテラスの左側には1時間少々で行けるスキー場のアルプスの最南端の3000m級の山並も見えます。


コンチキ号(オスロ―の博物館より)


1980年代の思い出になりますがある機会に南米のチリーから南太平洋を筏、コンチキ号で8000kmを
風と海流に任せて航海した人類学博士のノルエー人トール・ヘイエルダールのお宅にお邪魔し色々と航海
のきっかけなどの話を聞かせてもらいました。住まいはイタリアのリビエラ海岸の小さな街ボルデイゲーラで何で
ここに住んでいるかの質問に家の裏へ連れて行かれ雪山を見せられさらに家の前から地中海も見せられ、
彼曰く食事も気候も最高で住み着くには一番と聞かされました。
この彼の言葉は40年もたった後でも脳裏に残っていた。
2019年40年近くも住んだジュネーブ郊外のフランス領の家を売って海辺に引越しと決め込んで
南フランスのアパートを物色していたらニース郊外の小高い丘に建築工事終了間際のアパートを発見。
テラスから地中海、アルプスの山々が見え40数年前のヘイエルダールの言葉に唆されたのか即時購入手続きを完了。
ここに住み着いて5年。イタリアやモナコ、カンヌまで車で30分さらに1時間少々でスキー場
まで行けマウンテンバイク、ゴルフ、ジョッギングに励むも日々の生活となりました。

 
マッターホルン捜索




2025・11・10



写真の整理をしていたら1970年にマッターホルン北壁の基部で撮った写真を見つけました(下の2枚)。
そこには、前年にアイガー北壁をともに登ったパートナーの融ちゃん(中野融さん)が写っていました。
このとき私たちは、マッターホルン北壁の登攀が目的ではなく、数日前に北壁で墜落し行方不明になった
小林君の捜索のために現地を訪れていました。

 
左=捜索中の中野、手島。右=来れば巣の危険を避けるため長いザイルで確保して捜索

シャモニーに滞在中、在ジュネーブ日本領事館から捜索依頼の連絡を受け、私たちはすぐにツェルマットのヘリポートへ直行。アンザイレンをし、アイゼンを装着し、完全装備でヘリコプターに乗り込みました。徒歩なら丸一日かかる行程も、ヘリの離陸後あっという間に北壁の基部へ到着。懸命に捜索しましたが、小林君のヘルメットをクレバスの底で発見したのみで、悪天候のため捜索は打ち切られました。

その遺体は、40数年後、氷河の自然崩落によって氷河末端で発見されたそうです。いつか登ろうと思っていたマッターホルン北壁には、結局いまだに登れていません。しかし、夢の中では何度も登攀に成功しています。小林君とは、遭難の2週間前にもシャモニーで一緒に登山をしており、楽しい思い出がたくさんあります。そのときは、シャモニー針峰群のブレチエール(3,522m)の北西稜を日帰りで登る計画でした。


プルチェール3522㍍。右・西壁、正面・北西陵、左・ナンチオン氷河(下降ルート)

融ちゃんたち3人はより難しい西壁に挑戦し、小林・手島組は少し易しいとされる北西稜を登る予定でした。
お昼には、西壁中央部の正面に出られる地点に到達し、下部にいる融ちゃんたちに「ここで待っている」と伝えましたが、待てども登ってくる様子はなく、いつの間にか夕方に。 暗くなってようやく合流できました 。日帰りの予定が崩れ、5人全員で夜景のシャモニーを見下ろしながらその場でビバークすることになりました。翌日は5人がザイルでつながり、わいわいと賑やかに岩登りを楽しみました。

しかし、頂上直下に着いた頃には、なんと再び夕方。 眼下にはシャモニーの街の灯りと、中心地のビアホール「アルペンストック」がよく見えました。本来なら日帰りのつもりで、そこで飲み食いしているはずが、持っていた食料はほとんどなく、雪を溶かして作ったお湯にチョコレートを溶かして飲むだけの夕食になりました。

登り始めて3日目の早朝にようやく登頂。 雪崩の危険があるナンチヨン氷河を安全に下るため、
グレポンの基部を慎重に時間をかけて下降し、夕方になってようやくシャモニーの「アルペンストック」に飛び込み、
大ジョッキのビールで乾杯しました。 幸い天候にも恵まれ、素晴らしい仲間たちと過ごした、
忘れられない楽しく快適な登攀となりました。

上記の記事でメンバー名や分かりにくいところが有ったので、手島さんに問い合わせたところ、調べた結果の連絡が来ました。

手島さん達が捜索要請を受けたのは、及川三千雄さん(当時22)、小林正幸さん(当時21)でした。二人の遺体は融解した氷河の中から発見されたもので、2025年8月7日のAFP電が報じている。スイス・バレー州警察によると、遺体はマッターホルンの標高2800㍍地点の氷河で昨年9月に見つかった。DNA鑑定の結果、1970年8月18日に行方不明になった及川、小林さんで、在ジュネーブの日本領事館で、今年の6月から7月に確認されたという。バレー州警察には、同州内で1925年移行に遭難した登山家全員のデータベースがある。

アルプスでは山岳氷河の融解に伴い、行方が分からなくなっていた登山家の遺体が、氷の中から発見されるケースが増えている。ただ、最近は捜索・救出手段が進歩し、遭難者の行方が長い間、分からないママというケースは減っているが、雪崩に飲まれた場合は、現在も氷に閉じ込められるケースは起こりうる。

以前は氷河の末端から発見されることが希にあったが、最近は融雪が急速に進んでいるため、末端まで流される以前に、融雪によって露出することが起こっている。(syowa)

 初冬のリビエラ

2025-11-17


テッシー家からのアルプス。イタリア/フランス国境の山々。


  
左・ニースの夜        右・リビエラの夕暮れ

テラスから見える南アルプス:イタリアフランス国境の山々。(中央:モン・ジェラス=3050m)

 なお、2030年の冬季五輪・パラリンピックは、このフランスのアルプス地域で開催され競技の一部は

 ニースに近いスキー場 ISOLA 2000で行われる予定です。