嗤う徒然草
“健康”法師の徒然

 枯れた坊さん、と思っていた昔、昔の名エッセイスト吉田兼好、人呼んで兼行法師は”枯れた振り”をした、粋な爺さんだった。渋い面をして、出がらしの渋茶をすすりながら、筆を舐めなめ「ひぐらし硯に向かって」いたのかも知れないが、書く物は今風の書き手も、首と頭、それに顎を上下して納得。白い脛を見て仙力を失い、女の前に転げ落ちた仙人の“久米ちゃん”の心情ごもっとも、と思い、さらに緩やかな肩から尻へと流れる黒髪に、女の芳しさを堪能する、誠に粋なジジイなのだった。




心惑わすは色欲に如かず

久米の仙人に絡んで日本の仙人や中国の仙人を探ってみた。日本には38人ほどの仙人がいたというj話はあるが真言仏教の修行と一緒になっているので、呑気な仙人話にはならない。中国が本場で楊貴妃と喪関連する太公望なども、仙人の仲間に入っている。こりゃ、手に負えんワイ、で、のんびり、徒然草などを読んで、面白そうなところが有ったら拾い出すつもりだった。ところが、「日ぐらし硯に向かって」いる兼行さんは、いい歳なのに誠に健康。第八段で、ワシャ、早速躓いてしまった。

世の人の心惑わす事、色欲に如かず

早速、徒然草八段の書き出しがこれだ。匂いについて持論を一席。匂いは仮のもので、しばらく衣類などに焚き込むと知っていながら、良い香りがすると心がときめくものだ。そして、来ました。久米ちゃんの話が…。

 久米の仙人の、物洗ふ女の脛の白きを見て、通(仙力)を失ひけんは、まことに、手足・はだへなどのきよらに、肥え、あぶらづきたらんは、外のいろならねば、さもあらんかし

久米の仙人が女の脛の白いのを見て仙力を失って墜落したのは、その人の手足や肌がきれいで、つやつやしているのは体そのものの美しさだから、もっともなことだ

 言ってくれます。兼行さん、すっかり久米チャンの行動を納得して、墜落も当然だと認めているのだ。これで、色欲論はお終いか、と思ったらそうではない。続く第九段では女の髪について語っている。


髪の長い女

女は髪のめでたからんこそ、人の目立つべかんめれ、人のほど・心ばへなどは、もの言ひたるけはいにこそ、物越しにも知らるれ。(女は髪の毛の良い人ほど、男の目につく。人柄や心がけなどは、言葉の端々で分かるが、髪の美しい女は、ただそこにいるだけで、男の心を惑わす事が出来る)

こんな書き出しで一家言。心を許す間柄になっても、満足に寝られない。苦労もいとわず耐えられそうも無いことを耐えるのは、女の容色、愛情に気を遣うからだ。愛着の道は根が深く、入り組んでいる。

色・声・香・味・蝕・法など六塵の欲望などもある。これらは努力で心から追い出す事は出来るが、恋愛の執着を
押さえがたいのは、老若知寓には関係無いー。などと説き

女の髪で作った綱には、巨像も繋がれる。

女の履いた下駄で作った笛には、秋の鹿が寄ってくる。

女、そしてこの誘惑には自らを戒め、恐れ、慎まなけれならない、と書いている。

枯れたエッセイスト、兼行法師も、痛い目に遭っているのではないかと推測。

「教科書には無かりし 徒然草 ここにあり」(ジジイ)